両親の話

「自分がされて嫌なことはするな」

小さい頃から親に言われてきたことはなんですかと言われて、一番初めに頭に浮かんだのはこれだった。他にも言われ続けてきたことはたくさんあるが、とにかくはじめに浮かんだのはこれだった。

「自分がされて嫌なことは相手も嫌なのよ。だから自分がされたくなかったら相手にもしちゃいけないの。」幼い頃からそう言われ続け、私が学校の友達を傷つけたときは「あんた自分がそんなことされたらどんな気分になるか考えなさい!」と叱られた。

「相手の立場になって考えられる人になれ」

少し大人になった頃、その言葉はこう言い換えられた。

自分がされて嬉しいと思うことはすればいい。でも一度相手の立場に立ってみて、相手はどう思うかな?喜んでくれるかな?と考えなさい。もうそういうことが考えられる年齢なのだから。

これは完全に血筋なのだが、私の家系はいわゆる委員長だとか部長だとか、はたまた小さなイベントの班長だとかを比較的よく担う人種だった。「人に指示をする立場の人は相手の気持ちを考えないといけないんだよ」そんなことも時々言われた。

「でも、それってただのエゴじゃん。自分がいいと思ったことが相手にとってもいいだなんて自己中なモノサシだよ」

反抗期の私は大変屁理屈屋だった。幼い頃から当たり前のように言われてきた言葉にも無性に反発したくなった。それって本当の親切とは言わないんじゃないの?じゃあ本当の親切って何?

「確かにそうだ。ただのエゴだ。でもな、人間はみんな自己中心的な生き物なんだ。みんな自分のためにしか生きられない。だったら、同じ自己中ならできるだけ親切な自己中でいた方がいいだろう。」

所謂しつけ、というものはうちでは主に母が説いていたし、思い出せる限りの精神論みたいなものもほとんどが母から言われていたように思う。でもこのときのこの言葉だけは、父から聞かされた記憶がはっきりと残っている。今現在のボキャブラリーでいうと完全に論破されたって感じなわけだが、当時の私も何も言い返すことができなかった。ただムスッとして「なにそれー」と言っていたが、内心ひどく納得していた。

優しくありたい。たとえそれがエゴだったとしても、相手にとってなにがより親切なのかを常に考えられる人でありたい。自分がどうすれば相手が悲しまないか、自分がどう動けば相手が喜んでくれるのかを常に考えられる人でありたい。

それが私の両親の教えであり、願いだからだ。

 

私の父は決して寡黙な父ではなかった。というかうちの家系に寡黙な人などいなかった、と思う。

幼い頃から私は見た目も中身も父親似だと言われ続け、年を追うごとに自分でもそう思うようになってきた。父が年を重ねるにつれ容姿の雰囲気は離れていくが、人格が確立するほどに性格が酷似してきたと実感する。

父と私の関係は概ね良好だった。父のことを気持ち悪いと思ったことは今までで一度もないし、今でも父のことが好きだ。小さい頃はよく家電量販店に二人で出かけていたし、父の運転する車の助手席で歌を歌うのが好きだった。父は歌が大変うまく、機嫌がいいと熱唱する父が大好きだった。結構大きくなるまで、「お父さんみたいな人と結婚したい」と言い続けていた気がする。

私には7つ上の兄と、5つ上の姉がいる。二人とも父との仲はいい。兄はともかく、娘二人が父のことを邪険に思わなかったのは、一重に母のおかげだったのだと気がついた。気がついたのは、思春期も終わる頃だった。

 

生まれてから21年と数ヶ月、記憶の限りでは、私は母と似ていると言われたことがない。似てないことはないと思うのだが、確かにめちゃくちゃ似てるかと言われればそうでもないと思う。それは見た目だけではなかった。

私と母はとにかく考え方が違っていた。考え方というか、脳の使い方とでもいうのだろうか。例えば、母は結構どうでもいいことをすごく覚えているタイプだ。私の友達の誕生日だとか好きな食べ物だとかを覚えている。もちろん、それらは私が母に伝えた情報なのだが、私が忘れてしまったことまで母は事細かに覚えていることが多い。

一見何の役にも立ちそうにない情報を覚えていて、ときどきとても救われることがある。

一方私は、興味のない・必要のないと判断したものはすぐに忘れる。それはもう、ものの見事に忘れる。その代わり興味のあることに関してはスポンジのごとく情報を吸収し、滅多なことがない限り経年などでは忘れることはない。

母は広く浅く記憶するのがうまく、私は深く狭く掘り進めるのが好きだ。

そういう違いが、随所に現れはじめたのはわたしが高校生になってからだった。いや、母が言うにはわたしが物心つく頃からそうだったらしいが、とにかくわたしが母との違いを自覚したのは15歳頃だった。

母はとてもおしゃべりな人だ。それはもう本当に絵に描いたようなおしゃべりなおばちゃんだ。そしてわたしもまた、おしゃべりな女の子だった。母と二人で女子トークすることは少なくなかったし、話しが弾みすぎて二人で2時間ちかくお風呂に入ってのぼせたこともあった。

母は、いい意味でも悪い意味でもとても「女性らしい性格・考え方」の人だった。そういった点で姉がとても母と似ているのだが、とにかく、母はそう言う人だった。あまり利口な人ではなかったかもしれない。頭の回転はすこぶる早かったが、勉学に関してはそこまで明るくなかったように思う。

一方で、父はとても明哲な人だった。単純によい大学を出ていたし、とても物知りであった。父に聞けば大体のことは教えてくれた。リサーチ力に優れていたため、わからないこともすぐに調べて教えてくれた。

そんな父を、母は心から尊敬していたように思う。

そしてそんな二人を見て、私たち兄弟は心から父を尊敬していた。

本当に、そんな二人を見ていたから、私は父のことを心から尊敬できていたのではないかと思う。

 

私は今まで、母の口から父の悪口を聞いたことがない。

さっきから人生で一度も〜ないを乱用しているが、記憶上では全て事実なのでそのままの意味で受け止めてほしい。

とにかく、私は母から父の悪口を聞いたことがなかった。

夫婦喧嘩をしているところは何度か見たことがあった。原因は様々だったし、体半は私たち子供のことだった気がする。それでも、単純な「悪口」というのは聞いたことがないのだ。

父からもまた母の悪口を聞いたことはないのだが、接している時間が倍以上違うのでありえることではあるかなと思う。

母は、父に全く文句がなかった何てことはなかったと思うのだ。

これはあとからわかることなのだが、父はとても難しい人だった。頑固で、プライドが高くて、そして繊細だった。

父はいつからか鬱病を患っていた。いつからなのかは正確には知らない。気が付いたら父は日中ずっと家にいて、「最近お父さん家にいること多くて嬉しいな」程度にしか思っていなかった。はじめは私にだけ知らされていなかったのだ。知らされないほど、私がまだ幼い頃から患っていたのだと思う。

原因は知らない。何も知らない。でも、父は明らかにかつての元気さを失っていた。笑顔が減って、口数が減って、出かけることが少なくなった。大好きだった家電量販店デートも行かなくなった。機嫌の悪いことが多くなった。

今現在も、父はまだ治療中だ。しかし復職している。私の学費を稼ぐために、担当医に休職を勧められる状態にもかかわらず、働いてくれている。

年に2〜3回、私は実家に帰省する。仕事から帰ってくる父と母は、昔より確かにぶつかる頻度が増えていた。

それでも母は、私の前で父のことを決して悪く言わなかった。父もまた、母のことを悪く言わない。「ごめんね」と、うつむきながら言う父を私はどんな気持ちで見ればいいのかわからなかった。

 

父は利口な人だ。母は明朗な人だ。

私は二人のことを心から尊敬している。

私は二人に心から感謝している。

だから、親孝行がしたい。親孝行がしたいのだ。

 

親孝行って、なんだろうと考える。馬鹿高い学費分のお金を返すことだろうか、有名になって自慢の娘になることだろうか。

二人の立場になって考える。二人が一番に望むことは、きっと私が幸せになることなんじゃないかなと思う。たぶん、そうだ。

私は幸せにならなきゃいけない。幸せになる義務がある。

幸せになるための努力を惜しんではいけないのだ。

自分のためじゃなく、二人のために。と見せかけて、自分のエゴのために。

 

幸せが何かなんて知らないが、きっと相手に親切にできる優しい人であれば、周りを幸せにできる人であり続ければ、きっとなんらかの未来が見えるんじゃないかなと思っている。ただ漠然と思っている。